言葉にする って…

2007年6月16日付 読売新聞・夕刊
「私のいる風景 作家・小川洋子さん」の記事を読んで。
(以下、新聞からの引用部は【 】で括ります)

小川洋子さんは、2005年に読売で連載された小説「ミーナの行進」の作者。
私はこれを読みたかったけれど、あえて我慢した…というか読めなかった。
ふだん本は読まない私だけれど、新聞に掲載された小説は気が向けば読む。

この年の私はおかしかった。今もオカシイといえばそうなんだけど…
この年の自分を忘れるつもりはない。思い出すと複雑な気持ちになるけど。

読む余裕がなかった「ミーナの行進」だけど私は週に一度掲載される
この小説の一面を破って手元に残していた。読まずに。毎週、毎週……
いつか読める時が来たら、まとめて読もうと思っていた。
読めないまま最終回まで破り終えた。

結果。しばらく手元に置いてたけれど、読まないで全部捨てた。
引越しを挟んで、前の家でも今の家でも、時間も心も余裕が全然ない中、
ずっと破り続けてたその面。たしか、一回分だけ見当たらなくなってた。
それが悲しかったのか、ただ読むのがメンドクサイと思ったのか、
たまった新聞の紙のカタマリをただジャマだと思ったのか。

捨ててしまったものは仕方ない。
本になるのはわかってる。それで安心して捨てることができたのもある。

すでに本になっているけれど、私は読んでいないけど。
きっと読んだらうれしくなっちゃうような本なんだろな♪と想う。
ふふふ。読まなきゃ意味ないのにな♪

新聞の記事の小川さんのコメントの中で印象に残った言葉。
【「…子どもはやがてガードを打ち破って外へ出て行きますが、
守られていたというその記憶が、大人になってからも
その人の心の礎になるのです」】

私も大人たちに守られていたはずなのに…礎はあると思うのに……
そんなことを考えてしまう。

【「…今は、自分の中の邪悪さと折り合いをつけながら、
懸命に生きている人間がいとおしい」】


この記事で一番心に残ったのは次の部分。
【作者自身、意図せず書いたことが、小説の進行に連れて、
「魂で結ばれた二人」という意味を形成したのも、予想外だった。
 「偶然の幸福な一致を何度か経験すると、
作家は創作者というより発見者ではないかと思えてきます。
物語はすでにあり、私の仕事はそれを言葉にするだけなのかもしれません」
 作家個人を超えた大いなる世界に対する謙虚さが、その文学に
さらなる深みを加えた。】


私は作家じゃないし、なにかの創作者でもないけれど、
ただの一人の個人というヒトという生き物として、彼女の言葉に
共鳴してしまう。だから涙がこぼれたりもする。


二年前の傷を癒すのに、私はどれだけの時間を求めようというのだろう。
どれだけの人に嫌な思いをさせるのだろう。傷つけたりもしてるんだろう。
…そんなことを思う。
傷を完全に癒す必要なんてないんだろうと思ったり。
傷なんて、そもそも大したものじゃないと思ったり。

この痛みは、やっぱり私のモノガタリのなかにすでにあって、
それから逃れることは可能なのかもしれないのに、
それでも逃れずにいる自分を、ただなんとなく感じてみたり。

邪悪さと、折り合いつけつつ、なんとか生きてみたいなと思ったり。
懸命に。できたらいいな。でも、まだ懸命なんかじゃないのだろう。

本を好きになるのはこわいのかもしれない。
人を好きになるのもこわいしね。
言葉を好きでいると涙が出るしね。

それでも本も人も言葉も嫌いになんてなれないから、
読んだこともない小説について、あれこれ書いてみたりして。
無責任というか、おかしな私です。

世の中に素敵な人があふれてるから、素敵な本もあふれてる
素敵な言葉もあふれてる。この事実がうみだす空気を吸って
私は今ただ生きています。
なんだかうれしい。ただ生きてるだけなのに。今はこれだけ。
だからブログなんて場所で、言葉、書いちゃっています。

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